紀田順一郎(1986)『読書の整理学』朝日出版社(朝日文庫)(3)
紀田順一郎(1986)『読書の整理学』朝日出版社(朝日文庫)(1)
紀田順一郎(1986)『読書の整理学』朝日出版社(朝日文庫)(2)
集めた本をどう読むか:「タテ積み」と「ヨコずれ」
本を集めると、必然的に1冊の本の熟読ではなく、複数の本の多読を要求されることになります。しかしじっくり読まなければうまく飲み込めないような内容のものもあるはずです。
問題に対する興味関心のあり方を、紀田は絵に対する二つの見方である「タテ積み」と「ヨコずれ」(p. 194以下参照)によって区別しています。
- タテ積み:「一枚の絵を全体から見て、それに飽きてくると細部を、次に色の輝きを、というぐあいに角度をかえて興味を感じていくこと」
- ヨコずれ:「次から次へ異なった絵に興味をずらしていくことにより、新たな興味をかきたてていくこと」
さらに紀田は、このような興味関心の持ち方は、読書にも当てはめることが可能だと考えています。
- 精読家タイプ:「一冊ないしせまい分野の書物、一人の作家だけをじっくり読み進めるもの」
- 乱読家タイプ:「異なった分野のものを多用にとりいれるタイプ」
平澤一(1996)『書物航游』中公文庫(2)
紀田順一郎(1986)『読書の整理学』朝日出版社(朝日文庫)(2)
紀田順一郎(1986)『読書の整理学』朝日出版社(朝日文庫)(1)
「スジを掴む」
ある問題について探索する際、どのような目的でそれを調査し、何を〈答え〉とみなすかについて確認したり、そもそもどこまで探索するかの範囲を決定したりする際には、「スジを掴む」必要が生じます。「最も効果的な探索網を発見」し、「一定の経験・知識を動員してスジを掴むということ」(p. 76)です。
続きを読む紀田順一郎(1995)『日記の虚実』ちくま文庫(1)
日記の〈真実〉
紀田は『日記の虚実』のなかで、次のように述べています。
日記は真実の記録であるはずだが、それが客観的な真実であるという保証は何もない。(p. 90)
「真実の記録であるはず」という言い方は、次のように解釈できるように思います。すなわち、日記に書かれたことは「真実」であるはずであり、そうでなければならず、またそのようなものとして記録・保存されているはずだ、という前提です。
当然といえば当然のことなのですが、紀田はそのようなナイーブな前提をあえて疑問に付すことで、「日記を書く」という行為に隠された虚構と現実のあいだの境界線を、非常に緻密な分析と推論によって浮き彫りにしています。
「日記は虚構される」という前提をナイーブなものとして、当たり前で当然のことと捉えてしまうのではありません。そういった虚構性自体が、ある種のリアリティをより明確に示しているということを、紀田は明らかにしていきます。
続きを読むハワード・S.ベッカー, パメラ・リチャーズ(1996)『論文の技法』(佐野敏行 訳)講談社学術文庫(2)
ハワード・S.ベッカー, パメラ・リチャーズ(1996)『論文の技法』(佐野敏行 訳)講談社学術文庫(1)
技法よりも精神的なコントロール
自分ではなく、他人はどう書いているのか。
どのように書き始め、書き継いで、書き直しているのか。
不安や悩みというものは、それが自分だけではなく他人も似たり寄ったりで抱え込んでいるものであると、それが分かるだけでも心が安らぐものです。
本書では、書くことによって生じる不安や悩みといった体験が共有されています。 いわゆるハウツー本のように、「うまく書く」方法について書かれているわけではありません(全く書かれていないわけではないですが)。
むしろ、「うまく書けないこと」について、その周辺で起きる出来事や当事者の感情や思考といったものについて書かれています。
「技法」というよりも「心得」くらいのものかもしれません。書くときの考え方や心構えを伝え、精神をいかにコントロールすべきかその手立てについて紹介している、というのが主となっています。
では、どのような考え方や心構えについて書かれているか。
続きを読むリチャード・パワーズ(2015)『オルフェオ』(木原善彦訳)新潮社(2)
リチャード・パワーズ(2015)『オルフェオ』(木原善彦訳)新潮社(1)
ゲノムと音楽
そもそもなぜエルズは遺伝子工学に手を出したか。それは、遺伝子の構造やその運動性が、音楽のそれと同じものだからです。両者を結ぶキーワードは「感染」です。
続きを読むリチャード・パワーズ(2015)『オルフェオ』(木原善彦訳)新潮社(1)
〈神〉の創造物への畏怖と科学
『マルテの手記』や『ドゥイノの悲歌』などの作者であるオーストリアの詩人・作家ライナー・マリア・リルケ(1875‐1926)が雑誌『インゼルシフ』の創刊号(1919年)に寄せた『原初のノイズ(Ur-Geräusch)』というエッセイがあります。
人間の頭蓋骨には「冠状縫合(Kronen-Naht)」と呼ばれる結合組織の間接がある。語り手は幼少期に物理の授業で習った蓄音機の仕組みを思い出しながら、この溝に針を落としたらどのような音楽が聞こえるのだろう、と想像するという内容です。
後世に人類によって発明された技術は、その発明の前から存在する技術、いわば〈神〉の創造的技術を解読し、そのコードを出力変換できるかどうか。
これはSFなどでもお馴染みのテーマですが、そもそも自然の創造物を、技術的に読解・変換可能な記号として捉えるというのは、科学における根本的な前提でもあります。
しかし「神」の創り出した、人間には解読不可能な、あるいは解読不可能である「べき」ものに対する神秘的な感情や畏れといったものが、根強く存在し続けていることも確かです。
リチャード・パワーズの『オルフェオ』は、そのような科学技術と神秘的創造性とのあいだを、音楽という媒介を通じて和解させようとした、ある老人の身に起きた事件を描いています。
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