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紀田順一郎(1995)『日記の虚実』ちくま文庫(1)

日記の〈真実〉

紀田は『日記の虚実』のなかで、次のように述べています。

日記は真実の記録であるはずだが、それが客観的な真実であるという保証は何もない。(p. 90)

「真実の記録であるはず」という言い方は、次のように解釈できるように思います。すなわち、日記に書かれたことは「真実」であるはずであり、そうでなければならず、またそのようなものとして記録・保存されているはずだ、という前提です。

当然といえば当然のことなのですが、紀田はそのようなナイーブな前提をあえて疑問に付すことで、「日記を書く」という行為に隠された虚構と現実のあいだの境界線を、非常に緻密な分析と推論によって浮き彫りにしています。

「日記は虚構される」という前提をナイーブなものとして、当たり前で当然のことと捉えてしまうのではありません。そういった虚構性自体が、ある種のリアリティをより明確に示しているということを、紀田は明らかにしていきます。

日記を書く上での時間的な側面

とりわけ紀田が注目するのが、日記がいつ、どのような状況下で書かれたか、あるいは逆に、書かれなかったかという時間的な側面です。

例えば日記をいつ付けるか。就寝前か、朝か。就寝前の場合、それは寝床で横になって付けているか、それとも机で書くのか。

日記をいつ付けるかで何がそこまで違うのか。

紀田によると、そこには大きな違いがあります。

まず、翌日になると記憶あるいは興趣が薄れるために、主題が選択的になるだろう。当日だからこそ、寒いとかパンを食べたとかの日常茶飯事を記す気にもなるが、翌日以降になるとこの種の些事は意味がないように思えてくるものだ。(p. 268)

その例として挙げられているのが、永井荷風(1879~1959)の『断腸亭日記』(1917年9月16日~1959年4月29日)です。

永井荷風は夜遊びが盛んだったため、日記は翌日以降、数日分まとめてつけていたといいます。ときにはそれをさらに清書していたこともあったため、「その日その日のナマの感想よりも、ある種の整理された形での省略と、場合によっては誇張やウソを伴うこととなった」(p. 91)と紀田は分析しています。

日記に書かれる「一日」

またもう一つの違いとして、日記に書かれる一日の単位が変わることが指摘されています。 朝に書く場合、「〈一日〉の観念が前日の午前中から当日の早朝までとなる」(p. 268)ため、夢などの事柄が記述されやすくなることになります。

例えば大正の抒情画家として有名な竹久夢二(1884~1934)の日記には、夢や悪夢に関する記述が多く見られます。

紀田によると、夢二はふとんの中で日記をつける癖があったため、前夜見た悪夢は細かなところまでよく記憶していたといいます。文章が整理されていない箇所からは、彼がそれを寝ぼけ眼でつけていたからであろう、ということまで紀田は推論しています(p. 154参照)。

季節や天候

また季節や天候について日記に記すというのは、日本人が抱く日記への固定観念を表しており、小学校の宿題となる日記に始まり、欠かせない要素となっています。しかし季節や天候の描写には、書くことを習慣づけるということ以外にも、それ以上の意味があると紀田は捉えています。

変化に乏しく、さほど重要でない日々のなかに四季の変化や時間の変遷というささやかな詩的要素を配してアクセントとし、一日ごとにしめくくる。(p. 76)

平和で安穏とした日常は一方で幸せなものではありますが、他方単調であればあるほど書くことというのは無くなっていってしまいます。その点、四季という変化に富んだ外的環境について書くことは、変わりない日常に外的な変化を加え、そのリズムを作るという役割を果たしています。一日を詩的・叙情的な要素によって締めくくるという日本人の好む感覚は、国民的な美的感性という内的な要因だけでなく、天候という外的で地理的な条件も関係していると言えます。

またどのように季節や天候について触れるかによっても、自分の内面と外的環境を描写のなかでマッチングさせ、その一日をどのように表現するかを調整することもできます。季節や天候といったリアリティが、自分の内面におけるリアルと混ざりあうことで、表現の中である種の虚構や誇張が混ぜ込まれることもあるでしょう。

その意味で、やはり日記を書くという行為は、虚によって実を書くという、自分と外界それぞれに生じている〈現実〉を結びつける媒介となるものに他なりません。

紀田順一郎(1995)『日記の虚実』ちくま文庫(2) - Folgezettel