Folgezettel

買って読んだ本・古本について書いていきます。

紀田順一郎(1986)『読書の整理学』朝日出版社(朝日文庫)(3)

紀田順一郎(1986)『読書の整理学』朝日出版社(朝日文庫)(1)

紀田順一郎(1986)『読書の整理学』朝日出版社(朝日文庫)(2)

集めた本をどう読むか:「タテ積み」と「ヨコずれ」

本を集めると、必然的に1冊の本の熟読ではなく、複数の本の多読を要求されることになります。しかしじっくり読まなければうまく飲み込めないような内容のものもあるはずです。

問題に対する興味関心のあり方を、紀田は絵に対する二つの見方である「タテ積み」と「ヨコずれ」(p. 194以下参照)によって区別しています。

  • タテ積み:「一枚の絵を全体から見て、それに飽きてくると細部を、次に色の輝きを、というぐあいに角度をかえて興味を感じていくこと」
  • ヨコずれ:「次から次へ異なった絵に興味をずらしていくことにより、新たな興味をかきたてていくこと」

さらに紀田は、このような興味関心の持ち方は、読書にも当てはめることが可能だと考えています。

  • 精読家タイプ:「一冊ないしせまい分野の書物、一人の作家だけをじっくり読み進めるもの」
  • 乱読家タイプ:「異なった分野のものを多用にとりいれるタイプ」

乱読するべからず、なのか

昔の読書論はたいていヨコずれ・乱読を戒めています。

もちろん本をじっくりゆっくり読み、考え、その内容に対する理解を深めるために時間をかけることは大事ですし、1冊の本を大切に何度も味わいながら読むことが大切な経験となることは言うまでもありません。

しかし紀田も述べているように、乱読のようにとにかく読んでみることで、出会いが生じ、そこからある種の方向性が生じる可能性もあるはずです。

多種多様な本に接しているうちに、いつしかその中に干渉しあうテーマが見出され、思いがけない組み合わせによる新鮮な発見がされる場合もある。流動するヨコずれの渦の中に、タテ積みの柱が一本立てられる。(p. 195)

一見なんの規則性も見いだせないようなカオスのなかにも、実は一定の秩序が生じているという話があります。読書においても、それが当てはまるのかもしれません。

そもそも自分の読みたい本が最初からはっきりと分かっている人は、いったいどれくらいいるのでしょうか。

もちろん専門分野や好きなジャンルがすでにはっきりとわかっている人であれば、その分野の文献が目的の本となるのかもしれません。しかし紀田も言うように、「視野のせまいタテ積みばかり行っている読書も非生産的」(p. 195)なことも確かでしょう。結局「専門分野ないし方針を定め」つつ、「隣接する部門へ積極的に目くばりする」のが理想的な読書であると紀田は言っています(p. 195)。

しかし、このとき中心軸としての「専門分野」が先に来る必然性はないように思います。

むしろ中心軸はないけれど、なんとなく興味をもった本や、好みのジャンルだけどまだ読んだことのない作家など、それとなく手にとってみる。それを反復する内に、自分の好みや性向が段々と浮かび上がってくるような体験こそが、文献探索の醍醐味となるのではないでしょうか。

本と「出会う」

そのような乱読の助けになるのは、書店やアマゾンでもいいのですが、やはり図書館や古書店に違いありません。

図書館は十進分類法によって隣接するテーマの本を並べてくれていて、棚に行けばそれらが一望できますし、探しているテーマの本の隣の本が面白い本かもしれない、ということがざらにあります。

また古書店は、店ごとにある一定の傾向があるとはいえ、並んでいる本のランダム性は高く、古書店街であれば、お店を渡り歩く内に、前のお店で気になった本や、これまで自分が読んだ本との思いがけないつながりを持っていそうな本を発見する確率も高くなります。

あえて図式的に捉えてしまうとすれば、図書館はタテ積み、古書店はヨコずれの読みを、それぞれ誘発させやすいのかもしれません。しかし両者ともに、「1冊の本」という境界を越えて、眼前に複数の本を提示し、私達読者の視点を横に平滑させる助けとなるという点では、共通しています*1

ここには宝探しのような楽しさがあるように思います。「出会った」時の感覚を味わってしまうと、なかなか抜け出せなくなってしまうような魅力がそこにはあるのではないでしょうか。

紀田順一郎(1986)『読書の整理学』朝日出版社(朝日文庫)(4) - Folgezettel

*1:もちろん新刊書店も然りです。読書のための一番大切な施設であることは言うまでもありません。