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買って読んだ本・古本について書いていきます。

紀田順一郎(1995)『日記の虚実』ちくま文庫(2)

紀田順一郎(1995)『日記の虚実』ちくま文庫(1)

「日記に書かれなかった事柄」への注目

書かれていることに対してのみならず、「書かれていない事柄」に対しても、紀田は鋭く分析の眼を向けています。

『麗子微笑』(1921)で有名な画家岸田劉生(1891~1929)の『劉生日記』について扱った章では、日記を中止した日付と、伝記的事実を照合しつつ、ある事柄について、それが「なぜ書かれなかったのか」ということも考察されています。

日記の中断が大正14年7月9日であり、長男鶴之助の誕生が翌15年3月28日であるという事実から出発し、出産経過が順調だったと仮定して、妊娠の兆候に妻が気づく時期と日記の中断の時期が近しいことが導き出されています(p. 145参照)。

そこから夫婦間の関係性や、劉生が抱えていた問題、さらに劉生にとって「日記を書くこと」が持っていた意味をすり合わせながら、「書かれなかった理由」について推理が進められていきます。

鮮やかな論理展開とともに、日記に記されている日付がもつ意味の多層性が鮮やかに読み解かれています。

非日常における日常の意義

仮に書かれている事柄が平凡な日常茶飯事であったとしても、それがいつ書かれているかによって大きく意味が変わるということもありえます。

戦時中という非常時に書かれた日記、伊藤整(1905~1969)の『太平洋戦争日記』には、畑仕事や新聞記事への感想めいたものが散見しています。

これらは、「平時ならあえて書こうともしない、書く気にもならない事柄に属する」(p. 207)、平凡な日常茶飯事です。

しかし「非常時だからこそ、そのような日常茶飯事が新鮮な出来事ないしは珍事として記録に値する」(同上)ことに紀田は注目します。

あらゆるものが貴重になり、新しい意義を帯びてくる。書く材料、書きのこしておきたい主題は山ほど出てくる。日記を書く者にとってこれほどの好条件は滅多にあるものではない。(同上)

また、ここには「新事態と自分との関係が、客観的に重要な意義をもっていると感じられる」状況が生じており、そういう場合にこそ「人は記録への情熱を喚び起こされる」(同上)ことを、紀田は指摘しています。

日記をつけ、自分にとっての「日常」を記録することは、同時に「記録しないこと」を選択することでもあります。

そのようにして、自己の内面と外部の世界とのあいだに何らかの形で生じたズレが、書く行為を通じて調整されていくことになります。

日記がそのような選択の蓄積の結果であり、そこからは書かれている「事実」以上にリアルな、日記記録者の〈真実〉が看取されることを、本書は示しているといえます。

なぜ日記は虚構される?

当たり前のことですが、日記を書くということは、文章化するということに他なりません。 それは混沌とした現実の出来事を、論理的な文脈へと並べ替える作業です。

時系列に並べる、と一口にいっても、はたしてどの出来事を時系列として並べるか、どのレベルのことまでを扱うべきか、文章化する時点で選別の必要が生じます。

また、その日記を誰が、どのように読むかということでも、書くことや書くべきでないことは変わってくるでしょう。もちろんよほど特殊な事例でないかぎり、それは大抵自分だけが読み返すものでしょう。

しかしそれでもなお、どのようにそれを読み返すのかによって、書き方も変わってくるはずです。これは日記を書くという行為のきっかけや目的に深く関わってくることです。

例えばネガティヴなことは書かないようにして、見返した時にまた嫌な気分をぶり返さないようにする書き方もあります。その場合当然、嫌なことは省略されたり、楽しかったこととして脚色が必要となるでしょう。

その反対に、嫌なこと、悲しいこと、怒ったことなど、負の感情を書きつけることで、ストレスの解消の一環として、日記を感情の受け皿として書き始める人もいるでしょう。

こう考えてみると、日記を書くという行為自体がすでに、〈自分〉というものを文章化することで、何らかの形で構成し、修正し、日記帳の上に虚構する作業であると言えるような気がします。

文章化するということは、未来の〈自分〉を含めた「他者」に、その内容を伝達し、理解してもらおうとする作業に他なりません。

書くことによって、それを読む人がどのような「理解」を持つか、持って欲しいか、それをできる限り構成し、方向づけようとする。そのような行為です。

それは〈自分〉というものをどう理解したいかということを構築する過程だと言えます。