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Folgezettel

買って読んだ本・古本について書いていきます。

紀田順一郎(1980)『黄金時代の読書法』蝸牛社

「若いうちに本は読むべき」

よく「若いうちに本は読むべき」と読書論に書いてあることがあります。

たしかに読書には時間がかかるし、人生は限られているのだから、必然的に世の中の全ての本が読めるわけではない。したがって、より早いうちから読み始めれば、その分時間が稼げて長くなり、より多くの本を読むことができる。

しかし本当にそうなのでしょうか。いわゆる「読書離れ」に関するニュースや言説を見ていてしばしば違和感を感じてしまうのは、本を読む事があたかも無条件に何らかの「効用」をもたらすことを前提としているように感じてしまうからだと思います。

読書にかけた時間や金銭といったコストが、均等かつ均質なものとして捉えられ、支払ったコストに見合った「何か」が返ってくる、読んだ者に対してなにかしらの「恩恵」をもたらすというような信仰もまた、そこには見え隠れしていないでしょうか。

「読書の黄金時代」

「若い時から本を読むこと」という際に前提となっているのは、時間や購入費などの量的な側面にすぎないような気がします。

しかし質的な側面から考えれば、若い内に読んだとき(あるいは読んでいなかったとき)と、少し時間が経って年を取り、それなりに経験を積んでから始める読書を、同質に捉えることはできないように思われます。

人の一生の中で「読書の黄金時代」はあるのでしょうか。

紀田は『黄金時代の読書法』のなかで、読書の「黄金時代」が万人共通かつ同時期にあるわけではないということを指摘しています。

幼年、青年、中年、老年、それぞれにふさわしい「読書」がある。それを踏まえた上で、座右の書、そして臨終の書に出会うため、その時々に応じた読書を楽しむための方法論が、本書には提示されています。

ここで重要なのは、読むことの量的な側面ではなく質的な側面です。

いかにして読書の「効用」を高められるか。それは読書することそのものがもたらす「効用」というよりは、読書という体験を通じて、それをいかに思考へと、そして自分というものの生き方へと関連付けていくべきかという問題でもあります。

そのためには量的に多くを読むだけではなく、読むことを思考と関連付け、その内容をはっきりと具体化させるというプロセスが必要となります。

「対象化の努力」

紀田は読書における「対象化の努力」、アウトプットする習慣の重要性を強調しています。

頭の中だけで理解した気になっているものは、本当に「その気になった」だけでしかありません。それは、文字の表面を上滑りしているだけ、とさえ言えるでしょう。

それを避けるためには、読書後に得られる「何か」をはっきり対象化しておく必要があります。というのもその〈何か〉は、すぐにエーテルのように蒸発してしまう、儚いものだからです。

対象化の方法は何でもよく、本書では読書ノートや読書カードなどの古典的な方法について、その長短をいくつか紹介しています。

しかしとにかく重要なのは、自分の頭で感動や感情、思考などを対象化しておくことです。それには書きとめておくより仕方がない。

かといって、それは完成され洗練された文章である必要はなく、自分自身の認識のための、断片的な、文章の体裁をなしていないもので構わないと、紀田は注意しています。断片の箇条書き・メモ・書物の見返しに数行の感想を書くといったことで良い。

現在であれば、気になったところに付箋を貼っておくこともでき、それだけでも、考えることを始めるための入口を示す上で、十分効果があるはずです。

個人的にオススメなのは抜書です。感動したセリフやフレーズを書き写す。書いたりタイプするのが大変ですが、その苦労自体も選別のフィルタになります。「大変だけど、時間もないけど、それでもなお、残しておきたい」と思えるような一節に出会う瞬間を楽しみとすれば、それ自体もまた、より多くの本を求めるモチベーションとなるでしょう。

とにかく、自分の爪痕を残すことが肝となるわけです。

読書と理解

読む行為は、複数の行為を総合した概念にすぎません。それは、

  • 見る(文字を目で追う行為)
  • 文字・図をそのものとして認識
  • 認識したものをデコードし、変換する

といった行為を複合したものです。

朗読というのもありますが、それはまた別で、

  • 目で追い
  • 文字認識し
  • 音声変換し
  • 発声する

という行為を、「読む」という大きな枠組みで一つのものとして捉えたものとなっています。

このように紀田は読む行為を分析しながら、読書と理解の関係について考察していきます。

注意すべきは、読むという複合的行為が必ずしも理解とは結びつかないということです。そもそも理解という行為自体も、やはり複数の細分化された行為として考える必要があると紀田は指摘しています。

紀田は最低でも

  • それについて説明ができるか
  • それを他の事柄と関連付けることができるか

の二点を満たさなければ、「理解」したとは言えないと述べています。そしてそれは、「獲得した情報を、再現情報として再利用できるかどうかという問題」に他なりません。

「対象化の努力」によって、情報を自分のために保存するメディアを作り出すことは、再現情報*1としてそれらを再利用する際の大きな助けとなります。

読書と〈自分〉とのかかわりあい

紀田が本書で提示しているのは、このような再現情報のためのメディアを、いかにして自ら作り出していけばよいかを示す方法論だと言えるでしょう。

確かにこれらの方法論は、今やありふれたものばかりであるように見えるかもしれません。しかし著者自身も試みた方法論が提示され、事例を挙げながら具体的に説明してくれているので、自分でイン/アウトプット方法を構築する際に、大変参考となるものになっています。

重要なのは、作品の全体をつかみ、そのなかで自分とのかかわりあいを発見することであり、「学生のうちにとにかく読書にコストをかけること」自体ではありません。

コストの増大は質的上昇に直結しません。そこには方法論的な理解と、その行為がどのような機能・役割を果たすものなのかということに対する理解が必要となってくるはずです。

「学生時代にもっと本を読んでおけばよかった」と人が言う時の「読む」とは、どのような行為として捉えられたものなのか、それ自体を反省しておく必要があるように思われます。

紀田はショーペンハウアーの「読書とは自分の頭に頼らず、他人の頭をもって思索することである」という言葉を引いています。

作者のペースを体得し、その思索の脈絡をたどっていくこと。しかしそれは翻って、〈自分〉というものを形作り、支えるための思考でもあります。そうして得た他者の思考を、自分の頭に置きかえていく。

それは、〈自分〉が他者の思考とのかかわり合いの中で醸成され、組み直され、その繰り返しの中でさらに変化していくような感覚を生じさせる。

もちろん、このような感覚を体験することは、決して読書体験においてのみに限定されるわけではありません。その意味では読書体験だけを特権化することはできないでしょう。

しかし少なくとも、読書がそのような〈自分〉を形作るための思考の元となる体験の一つであることは理解されるべきであり、その観点からこそ、読書体験というものを捉えていくべきなのではないでしょうか。