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買って読んだ本・古本について書いていきます。

フリオ・リャマサーレス(2017[1987])『黄色い雨』河出文庫(1)

沈黙、孤独、そして生死の狭間で爆発する語り

先が気になり少しでも早く読み進めたいと思う本と、読み終わってしまうのが惜しい本があると思います。

リャマサーレスの『黄色い雨』は、間違いなく後者にあたる作品です。惜しみつつページをめくり、一節一節を噛み締めていく。そしてそれを再読してもう一度味わいたい。

そんな感覚を久しぶりに覚えつつ、その圧倒的な静寂と孤独感と寂寥感にひたすら感動しながら本作を読みました。悲しい物語なのに、なぜか読後感は清々しい。作品全体を包む静寂と沈黙からは、清涼という言葉が真っ先に思い浮かびました。

沈黙が砂のように私の目を覆い尽くすだろう。(p.151)

裏表紙に書かれたこのラインに本文の中で出会った時、正直鳥肌が立ちました。

ページをめくって先へ読み進めていくことで、語り手の想起を蓄積しつつ彼自身という人格を豊かに想像=創造することができるようになる。ところが同時にそれは、冒頭から予感される語り手の沈黙、そして死、すなわち彼の消滅へ近づいていくことにもなっています。

この作品から感じられる清涼さとは、語りの終焉とともに混沌とした現実へと読者が引き戻されてしまうまでの間だけ持続する、儚いものでしかありません。

その意味で、彼と同調することは、そして本作品を読むことは、死を思うこととつながっています。

しかしそこには、死を単純に否定するのでも、またその反対に、死を「良いもの」としてポジティヴに受け入れようとするのでもない心構えが見出されるように思います。死を拒絶するのも、死をポジティヴなものとして読み替えることも、結局は死をそれぞれ異なる仕方で避けようとしているだけです。それに対し、語り手の死の受け入れ方は、このどちらでもないものであるように見えます。

さて、この語りは「死者」の語りなのでしょうか。

むしろ、それは生と死の狭間で爆発している想起と語りなのではないでしょうか。

実在の村から霊感を得た作者の語りは、死者というよりは死にゆく者の口を借りて行われています。彼を砂のように包み、絶望的な寂寥感をもたらす沈黙とは対称的に、語りはその結末に向かって、より一層饒舌に堆積していきます。

※ 以下、作品の内容と関わることについて書かれていますので、まだ本作をお読みでない方はご注意ください。

沈黙というカーテン

彼女を救うことはもちろん、彼女を包み込み、さらにこの家と私までも呑み込んでいく沈黙の厚い網目を断ち切ることはできなかった。突然言葉がすべての意味と機能を失い、ランプから立ち上る煙が私たちの間に乗り越えようのないカーテンを作り上げ、そのせいでお互いの顔を見分けることもできなくなったように思われた。(p.29)

本作品において、沈黙はすべてを吸収するものとして描かれています。それはすべてを暗闇の中に呑み込んでしまい、忘却の彼方へと追いやってしまいます。

人間同士の関係性もまた同様です。過疎化によって閑散としていく集落のなかで、一人一人の間に生じる関係性は徐々に希薄になっていきます。そこには最早語るべき事柄や事件、最終的には言葉自体が介在し得なくなってしまうのです。

話すこともなくなっていき、永遠に続くような時間の中で、意識はどんどん混濁していき、関係性もどんどんぼやけていってしまう。

語り手と妻(「彼女」)の関係は、沈黙によって生じる煙や霧といったイメージとともに表されています。そのような煙や霧は、カーテンのように彼らを覆い尽くしてしまい、それがお互いの顔も遮ってしまう。

「二人のあいだにもう言葉はいらない」とはよく言いますが、彼らの置かれた状況は、ある意味その究極の形であるように思われます。

たしかにそれは、親密さの証明にもなりますが、同時に別れの原因にもなるのですから、非常に両極的な結果をもたらすものです。言葉の無さは関係性を停滞させていくものでもあります。

言葉は、社会における関係性をある一定のパターンのなかで、理解可能な形にパッケージしているものに他なりません。社会的な生活において、それを我々は無意識のうちに行っています。

しかし相手を理解しようとする、パターンのなかで捉えようとする視線は、社会という集団から隔絶されたところで、唯一その二人の間でのみ生じるようになると、ぼやけてしまう。最早語るべきこと、語るに値することすらも失われていってしまう。

この過疎化した村の中では、そして取り残されて長い時間をずっと過ごした二人の間には、最早語るべき何事かが起きないのです。そのようなことが起きる希望や可能性自体が絶たれてしまっています。その限りにおいて、お互いをより理解するための言葉、お互いの関係性を生き生きとしたものへと更新してくれるような言葉が存在していません。

延々と繰り返されるだけの日常のなかで、このような理解への努力自体がどんどん慣習化するとともに、そもそも自分が何を理解していたのかすらわからなくなってしまう。

そうして、自分が見ていたものは何だったのか、理解していたものは何だったのか、かえって相手が見えなくなっていってしまう。そのような不確実さが時間とともに増大していき、沈黙のカーテンをさらに分厚くしていってしまうのです。

このような関係性のぼやけ方が、集落に訪れる四季の景色とオーバラップし、それが彼らのまわりを包み込んでいきます。

そして包み込むような沈黙は、最終的には他者との関係性のみならず、自分という意識とのあいだの関係性をも曖昧にしていってしまうのです。