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買って読んだ本・古本について書いていきます。

ハワード・S.ベッカー, パメラ・リチャーズ(1996)『論文の技法』(佐野敏行 訳)講談社学術文庫(2)

ハワード・S.ベッカー, パメラ・リチャーズ(1996)『論文の技法』(佐野敏行 訳)講談社学術文庫(1)

技法よりも精神的なコントロール

自分ではなく、他人はどう書いているのか。

どのように書き始め、書き継いで、書き直しているのか。

不安や悩みというものは、それが自分だけではなく他人も似たり寄ったりで抱え込んでいるものであると、それが分かるだけでも心が安らぐものです。

本書では、書くことによって生じる不安や悩みといった体験が共有されています。 いわゆるハウツー本のように、「うまく書く」方法について書かれているわけではありません(全く書かれていないわけではないですが)。

むしろ、「うまく書けないこと」について、その周辺で起きる出来事や当事者の感情や思考といったものについて書かれています。

「技法」というよりも「心得」くらいのものかもしれません。書くときの考え方や心構えを伝え、精神をいかにコントロールすべきかその手立てについて紹介している、というのが主となっています。

では、どのような考え方や心構えについて書かれているか。

実際に本書をお読みいただければいいのですが、前回触れた書く前の儀式で私が見ているカードには、以下のようなことが概要として書き出されています。

実際には単語や記号や断片的な文しか書かれていませんので、少し文章化してみます。

最初に雑な草稿を書くこと(pp. 47参照)

下書き、どころかもっと雑なメモで良い、と私は理解しています。

とにかく書くことで、今自分で書けることがわかります。

  • 文章を書くための決断がどれだったか
  • 今何を持っているのか
  • 何をしたか、知っているか、何をこれからすべきか

などが、徐々に明確化していく。

また、早めに自分の考えを整理できます。

その際重要なのは、集めた資料なしで書くことです。

そうすることで、まだ混じり気の少ない、最初の着想、アイディアが書き留められます。

このアイディアから出発して、これから何を議論したいのかが明確になります。

また、どんな資料が必要か、足りていないかもわかります。

いわば、書くことが研究計画を作り出してくれるというわけです。

頭にあることをとにかく書き出してしまう(pp. 110参照)

したがって、アウトライン、ノート、資料、本など、とりあえずわきにでも置いておいた方が良いです。そのかわりに、頭に浮かぶことを何でも、できるだけ早くタイプしてしまうことが勧められています。

この「できるだけ早く」というのが、読んだ当時目からウロコでした。考えずに、感じろ、のようなものとして勝手に理解しています。

スピードを出して書いてみると、自分の書ける言葉というのがかなり限定されていることがわかります。その結果、自分が言いたいと思っていたことや、これまでの仕事の結 果すでに信じるようになっていることといったもののほとんどが、「いくつかのテーマに関してわずかな多様さからしかなっていない」ことがわかります。

書きたいことが山のようにあって困っている人も、何を書いていいかわからない人も、書き出してみると「わずかな多様性」が収束し、整理され、徐々に一本化していきます。というのも、実は書こうとする前に、すでに相当考えているからです。

書こうとしている時点で、すでに書きたいと思っているテーマがあり、それは思っているよりも多くない。それらは重なっているだけだったり、言いかえただけだったりするということ。

雑で早く書きだした草稿は、最終稿が出来上がるまで重宝する宝である、とでも言えるでしょうか。

気楽に、リラックスして、まずは書くこと

だから、書く時に冒頭に挙げたような不安や悩みは、時間を取るだけで、そこで立ち止まるべきではないわけです。

  • 自分は正しいことを言えてないかも
  • 世界に秩序なんてないかも
  • 何も見つけ出すことなどできないかも…

しかし秩序は最初からあるわけではありませんし、「正しさ」だって絶対的な基準があるわけではなく相対的なものでしかありません。

と、頭でそうわかっていても、いざ書こうとするとやはりモヤモヤしてしまいます。そういう私のようなネガティヴな人に向けて、ベッカーは次のように書いてくれています。

混沌を全体的に、論理的に、完全に熟知しないであろうとも、とにかくそれを書いてみて、そして、それを書いてみても、世界は終わることがないのだということを発見すること(p. 250)

「あなたが書いていることなど重要なものでなく、何の新しいことでもない」と思いこむこと。何を書いても死にはしない。恐怖を少しでも和らげて、リラックスして、開き直って書いてみること。

念仏のように唱えてみるだけでも結構誤魔化せます。このカードは見えるとこに印刷して置いておくと、それなりに効き目があります。

効果的に文献を使うやり方(pp. 262参照)

「すでに誰かに言われてるかもしれない」という不安もよく抱えてしまいます。

しかし全くの独創性とは、むしろ「誰も気にしていないこと」であり、それに対し関心を持っている人の数はむしろ減るはずだ、とベッカーは指摘しています。

自分で言うことを、すでに言われていることに結びつけながら、少なくとも最小限で良いから、新しいことが言えれば御の字です。その最小限の+αの積み重ねこそが、学術体系として連綿と続くものだからです。

むしろ、誰も研究したことのないものなんて、そもそも無いと思ってしまっていい。むしろ肝心なのは、すでに受け入れられている理論の脈絡を、意外な脈絡へと置き直すことです。

部品としての文献(p. 263参照)

一から全てを「自分の」言葉で書こうとして困っている人をよく見かけます。しかし自分の頭のなかにあることが、すべて自分の思いつきであるとは限りませんし、むしろそんなことはほとんど無いと思った方が良い。

論文を組み立てる際に、自分で全部の部品を作る必要はないわけです。むしろ、入手可能だと分かっているところは空けておいて、後からそこに組み入れていくやり方の方が、進みも速くなって精神衛生上も良いです。

また、そうすることで、一つの「議論」を自分の書く文章のなかで作り上げることができます。他の人が前にした仕事を、自分の仕事の内に属すべき部分へ接続し、それによって過去の研究者や思想家たちとのあいだに対話や議論が生じるようになるわけです。 将来の議論に使うために、読書によって、役立ちそうな部品を普段から探して集めておくことも重要です。そうすることで、読むことも書くことも、社会的なコミュニケーションの一形態として現れてくることになります。

書くことが持つ社会的な意味とは?

私は、最後に挙げた、社会的コミュニケーションとしての書くこと・読むことという点に最も関心があります。

書くということは、読まれるということです。そしてそこには、メディアを介したコミュニケーションが生じる可能性が生じる。

なぜこんな回りくどい言い方をしているかといえば、その可能性が生じる可能性は100%ではないから、いや、それどころか非常に低いからです。

しかし本書のなかでベッカーは、自分自身が書き、そして受講生が書き、それについてまた自分自身が書き、その読者がまた書き、・・・という連鎖によって生じるコミュニケーションを、いわば実践しているといえます。

この記事だけでなく、私の場合であれば彼のおかげでいくつか書くことのできた文章があります。それらは彼との対話の結果物であって、そしてそれは「コミュニケーションが生じる可能性」を0ではないものにしてくれたということに他なりません。

ここにこそ、体験の共有によって書かれた体験が、また共有されるという連鎖が生じる可能性が見出されるような気がします。