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リチャード・パワーズ(2015)『オルフェオ』(木原善彦訳)新潮社(1)

〈神〉の創造物への畏怖と科学

『マルテの手記』や『ドゥイノの悲歌』などの作者であるオーストリアの詩人・作家ライナー・マリア・リルケ(1875‐1926)が雑誌『インゼルシフ』の創刊号(1919年)に寄せた『原初のノイズ(Ur-Geräusch)』というエッセイがあります。

人間の頭蓋骨には「冠状縫合(Kronen-Naht)」と呼ばれる結合組織の間接がある。語り手は幼少期に物理の授業で習った蓄音機の仕組みを思い出しながら、この溝に針を落としたらどのような音楽が聞こえるのだろう、と想像するという内容です。

後世に人類によって発明された技術は、その発明の前から存在する技術、いわば〈神〉の創造的技術を解読し、そのコードを出力変換できるかどうか。

これはSFなどでもお馴染みのテーマですが、そもそも自然の創造物を、技術的に読解・変換可能な記号として捉えるというのは、科学における根本的な前提でもあります。

しかし「神」の創り出した、人間には解読不可能な、あるいは解読不可能である「べき」ものに対する神秘的な感情や畏れといったものが、根強く存在し続けていることも確かです。

リチャード・パワーズの『オルフェオ』は、そのような科学技術と神秘的創造性とのあいだを、音楽という媒介を通じて和解させようとした、ある老人の身に起きた事件を描いています。

テロと〈恐怖の再生産〉

安全などどこにもない。安全に見えるのはただ、危険を見ていないだけのこと。(p.194)

この作品の背景となっているのは、9.11以降、つねにテロの危険や恐怖に脅かされるようになった社会状況です。日常と非日常、安全と危険、生と死のあいだの境界線が曖昧となり、それらは容易に反転してしまいうるものとなってしまいました。潜在的な危険や恐怖は、人々の不安を常に掻き立てます。対処法があるとすれば、それは見えない恐怖を具体的な要因などの形で顕在化させ、見えるようにすることです。

主人公である老人ピーター・エルズは、ネットオークションで誰にでも手に入れることのできる実験器具を用いて、趣味で遺伝子工学を学び、ゲノム配列と音楽のあいだに関係性を作り出そうと試みていました。しかし偶然、彼の飼っていた犬が亡くなってしまい、その遺体を埋めていたところを近所の住人に見咎められたところから、彼の不幸が始まります。

そうだ。私は神をもてあそんだ罪で有罪。しかし、同じような生物は既に何千と作り出されていて、これから先も何百万と生まれてくるだろう。(287)

「日曜科学者」は一転して、遺伝子操作によって〈よくわからないがとにかく危険そうな細菌〉によって生物化学兵器を作り出すおそれのある、テロの容疑者になってしまいます。個々の出来事から因果関係が巧妙に構築され、後付けで半ば恣意的に結びつけられていきます。

パワーズはその過程を、エルズの視点から描き出していきます。

大衆文化好きのブログが、ピーター・エルズの家から押収された本のリストにリンクを貼っていた。[…]千冊の蔵書の中から、最大限の恐怖とスリルを引き出すように誰かがタイトルを入念に選んでいる。(251)

個別に生じた出来事が、メディアを通じて次から次へと結び付けられていく。その前提となっているのは人々が抱えている不安や恐怖といったネガティヴな感情に他なりません。

不安は今後もずっと成長産業であり続けるだろう。現代の経済は恐怖に依存している。(251)

ここには〈恐怖の再生産〉という歪んだ構造が見出されます。危険をもたらすであろう不確定要素は排除され、その様子が伝えられ、視聴されることで人々は一定の安心感を得ます。しかし実際には、それによって安全が取り戻されるわけではなく、反対に、より一層多くの「恐怖」を生産してしまうことになってしまいます。というのも、テロという見えない危険は、常に日常のどこかに潜んでいるがゆえに、終わることなく不安をかきたてるからです。

この不安を癒やすためには、逆説的に恐怖が作り出され、その解決や対処を見ることで、一時的であれ安心を得るという循環を作り出さなければなりません。そういう皮肉な状況のなかで、エルズは、そのような〈恐怖の再生産〉へと巻き込まれていってしまいます。

リチャード・パワーズ(2015)『オルフェオ』(木原善彦訳)新潮社(2) - Folgezettel