Folgezettel

買って読んだ本・古本について書いていきます。

鶴見俊輔(2013)『文章心得帖』ちくま学芸文庫(1)

文章を書くための「心得」

鶴見俊輔の『文章心得帖』は、実際に開かれた文章教室で話されたことを元に、その際参加者の方々が書いたものを実例としながら、自らの文章論をわかりやすくていねいに解説している本です。

これらの実例に対する具体的なコメントも含め、文章を書く上でのヒントがたくさん詰まっている本なのですが、鶴見の文章論は、単に〈うまい文章を書く〉ための方法論というよりも、〈そもそも文章を書くとはどういうことか〉、さらに踏み込んで、〈そもそもことばとはどのようなものなのか〉というところまで突き詰めて、考えられています。

タイトルにある「心得」とは、良い文章を書くための〈注意事項〉という意味でもありますが、それ以上に、文章を書くことによって何が起きるのかということや、ことばを使うということ自体に対する十分な〈理解〉のことも意味しているように思われます。

とりわけ重要なのは、〈書かれなかったことにもその人の特性が出てくる〉ということです。

鶴見が強調しているのは、文章とは選択の結果に他ならず、その選択こそが文章を書いた人を表すということです。

実例に対するコメントや実践的な方法論については本書を参照してもらうことにして、以下では鶴見の文章論の中からとりわけ、

  • 文章が自分をつくるということ
  • 文章を書く行為とは、選択する行為であるということ

について取り上げてみたいと思います。

ことばを通して社会に参加するということ

鶴見は、「言葉をもつということは、外側の社会がわれわれのなかに入りこんで」くるということ(p.26)であると捉えています。

コミュニケーションの手段である以上、それは伝達する側とされる側という両極が必要なのだから、当然といえば当然です。

しかし、例えばそれがひとりごとであったとしても、言葉はなんらかのコミュニケーションのために用いられており、その媒介となり、他者との意思疎通を前提としています。

頭のなかで生じるひらめきは、最初は小さなつぶやきや囁き程度であっても、徐々にことばの形をとって、ひとりごとになっていきます。このとき、ひとりごとは自分に対して行われるつぶやきであり、ある意味では自分が分裂している状態だと考えられます。

はじめに自分が内部に思いつくということは、自分のなかに社会が入ってくるということ(p.26)

自分の内部で何かを思いつくことは、それを思いつかせる外部の存在を前提にしています。言葉をもつということを〈内面化された会話〉と捉えると、思いつくという行為自体、既に社会との関わりや接点を持つものとして考えられます。

思いつきそのもののなかに、すでに社会というものがある。(p.26)

社会自体が構成されておらず、自分/他者という区別自体がそもそもない状態では、言葉は生じません。ここでいう「一人」とは、他者がどこかに存在することを前提として、今一人しかいないということではなく、絶対的な孤立状態のことです。

思いつく時、私たちは自分の中で、他人とのやり取りや社会を一人芝居で演じ直しているのだと言えます。

自分の考えを支える文章

鶴見は、ことばを通した社会との接触のなかでも、とりわけ文章を書く行為について、それが「自分自身が何事かを思いつき、考える、その支えになるもの」(p.26)だと述べています。

文章は思いつきからなる不定形で混沌とした内面の会話を、〈自分の〉考え方として秩序づけ、外部へと開示し、排出する助けとなるものです。

文章が自分の考え方をつくる。自分の考えを可能にする。(p.26)

文章を書くことによって、自分の考え方が形として生み出され、作り出される。書く前の段階では、未だそれは「思いつき」の段階にとどまっており、文章という支えの力を借りることで、はじめて自分の考えというものが可能となります。

自分の考えを支える文章を書くということは、逆に言えば、書くことと考えることが相互につながりあうということでもあります。鶴見はそのようなつながりを作り出すことのできる文章を「自分にはずみをつけてよく考えさせる文章」と呼んでいます。

良い文章とは、自分の考え方に勢いをつけ、より先へと進め、他の思いつきと結びつくことで、新たな形を作り出すよう促す文章にほかなりません。

鶴見俊輔(2013)『文章心得帖』ちくま学芸文庫(2) - Folgezettel