鶴見俊輔(2013)『文章心得帖』ちくま学芸文庫(2)
書くこと=選ぶこと
文章が自分の考えの支えとなる。
この指摘が示しているのは、自分がどのように考えていくべきか、引いては自分というもの自体を規定することと、書くという行為がダイレクトにつながっている、ということです。
そして、何かを規定し、決定することには、必ず選択する行為がついて回ってきます。
文章を書くために必要なのは、思いつきの中から、まさに自分の考えとして形にできそうなものを取捨選択する作業です。思いつきの段階では、頭の中で言葉は未だ混沌としています。そして文章を書くとは、このような混沌に形を与えるために、選び、作り変え、組み直す作業にほかなりません。
「〈選ぶ〉というのは、何かの形を与えること」(p.136)
当然のことながら、混沌をそのまま書き出しても、文章にはなりません。輪郭を与え、筋道を作る。そのためには選択する必要があります。自分ではなんとなくわかっていたようなことを、自分や他人が読んでもわかるような形へと整える。
「混沌をそのままに置いては文章はできないので、ある形をつくらざるをえない」(p.135)
しかし混沌は殺さないようにすべき
しかし意外なことに、鶴見はこのような混沌を完全に殺さないこともまた、文章を書く上で重要だと言っています。
なぜならば、発想段階での混沌には、ある種の生命力があるからです。
「形をあまり考えすぎて、まとまりをつけすぎると、われわれを生かしている生命の力、それがなくなってしまう」(p.136)
発想直後の段階では、それはまだ外部の言葉と自分の言葉、加えてまだ言葉にならないような思考が混ざり合っている状態です。そのような混ざり合いは、まさに私たちが生きているなかで、社会のなかで動き、出会い、ひらめき、考えるなかで生じるものにほかなりません。
この混ざり合った状態の名残を留めているものこそが、思いつき段階におけるこの混沌なのです。あまりにも形を整えすぎてしまうと、発想の際にあったはずの生き生きとした感じや力強さが失われてしまうことになります。それは「死んだ文章になってしまう」(p.136)わけです。
したがって書くという行為は、混沌と形のあいだを往復することだと言えるでしょう。それは〈混沌から形へ〉という一方通行の運動ではない。両者を行き来することが必要となります。そのなかで選択の連続に迫られることになるわけです。
そしてその選択肢は、私たちが生きている限りにおいて、無限と言えるほど数多く存在しています。
「書くということは、その前にものすごくたくさんの数えきれないほどの可能性があるということ」(p.137)
書くことで混沌に秩序を与えようと試みる者の眼前には、無数の選択の可能性が広がっています。書く者は選ぶ作業のなかで、その広大な可能性をすこしでも縮減し、その中に潜在している形を具現化しようと試みます。
何も考えていないように思える時でも、思考は何かを「考えて」います。そのような思考は、未だ言葉にし難いものとして、言葉の前や外側に沈殿しているものです。
書く行為はそのような外部から言葉を汲み上げ、選び取り、組み上げていくのです。
選択肢は膨大に存在している
このような膨大な可能性の数々は、しばしば私たちを惑わせ、不安にさせます。書く前の逡巡や書くことの無さに対する恐怖は、この無限とも思える可能性の広大さを前にした無力感からくるものなのかもしれません。
可能性は自分が把握することのできる範囲を超え出てしまい、広大な外部を形成しています。またそこに無意識もまた〈私〉の前に常に立ちはだかっています。これらのものは、〈私〉の操作可能な範囲を常に超え出てしまうものとして現れてきます。
しかしながら書く行為は、このような操作不可能とも思える混沌に、なんとか制約を与えようとするものです。それは混沌の中で自由に渦巻く思考や感情を、特定のルールの中で操作しようと試みます。
そして書く者はこの操作を通じて、〈私〉を超え出てしまう無軌道な自由を制御する感覚をおぼえます。仮にそれが十全なものではなかったとしても、コントロールしているという実感を通して、私たちは自らの自由さを感じ取ることが可能なのです。
もちろんそこには書く行為におけるさまざまな制約(社会的、言語的、文法的…等)が存在しています。しかしこれらの制約は不自由さではなく、混沌と形の間を往復するのと同じように、〈私〉とその外部を自由に行き来することのできる権利として捉えることができるのではないでしょうか。
自分を超え出てしまう混沌は、〈私〉に構わず自由に渦巻いています。
また書く行為には避けがたく様々な制約(社会的、言語的、文法的…など)が存在し、その前でもまた〈私〉はひどく不自由であるように感じてしまう。
しかし混沌と制約の間にこそ、〈私〉が書く行為の自由さが存在するのだと、肯定的に捉えるべきなのかもしれません。