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買って読んだ本・古本について書いていきます。

平澤一(1996)『書物航游』中公文庫(2)

平澤一(1996)『書物航游』中公文庫(1)

蒐集を様々な観点から分析・分類している「蒐集の話」

冒頭に置かれた「蒐集の話」では、書籍や美術品の蒐集について分析しています。非常に現実的かつ客観的な側面に焦点を当てており、精神科医ならではの視点といえます。

手始めに、平澤は「一体、一生の間に、どれくらいの量が集められるものでしょうか」(p.23)という問いに対し、「代金を払って集める個人の収集では、十万点が一つの限界かもしれません」(p.25)と目算をつけています。

もし十万点の書籍・美術品が限界を迎えるとしたら。

当然ながらそこには不可避的に物理的な問題が生じます。

「収集した物の量が、膨大なものになりますと、色々な問題が生じます」(p.25)

蒐集に対する情熱の深さ、結果的に訪れる現実的な破綻、そして避けがたい身体的・肉体的破綻としての死の問題といったものが、非常にリアルに描かれつつ、明らかにされていきます。

読者にとってはそれが、蒐集に捧げられた人生とその蒐集品の間に生じた物語のように表れてきます。

資金

ます資金の問題が挙げられます。

どんなにお金が有り余っていても、「より良い物・美しい物をほしいという願いは、限りなく膨らんでいく」(p.26)ために、経済状況が追いつかなくなって、やっと集めた物を売却せざるを得ない状況も生じるでしょう。

置き場所

次に置き場所の問題です。

「本は一冊では小さいものですが、冊数が多くなると、置き場所に困り、また重くなり、根太がぬけることもまれではありません」(p.27)。

ここには住居など、生活空間という物理的な限界が立ちはだかります。

また、生活空間である以上、そこには生活を共にする家族などもいるはずです。

「狭い居住空間に、家族が蒐集した物の間に、小さくなって生活しているようでは、妻や子供から蒐集についての理解や協力は得にくく」(p.27)、肩身のせまい思いをする羽目になります。

この対策として外部倉庫に預けるという手立てもありますが、「本などは、いつ見る必要が生じるか分かりません。見たくなった時、手元になければ、感興は半減し、非常に不便」(pp.27-28)であるがゆえに、なかなかその決心はしづらいでしょう。

これでは何のための蒐集なのかよくわからなくなってしまいます。これは、次に挙げる「鑑賞と愛眼の質の変化」とも関連しています。

鑑賞と愛眼の質の変化

蒐集品が増えれば増えるほど、「手に入れた一点に対して、ゆっくりと鑑賞し楽しむ深さが減少する傾向」(p.28)があると指摘されています。

興味関心から始まったはずの蒐集も、こうなってしまうと集めること自体が目的化してしまい、本末転倒なものになってしまいます。

外部倉庫に預けることも、鑑賞・愛眼するという目的からすれば本末転倒です。こうなると、最早蒐集も最期の段階に入ってしまったと言えます。

個人の蒐集の最期

では、〈蒐集の最期〉とはどのようなものでしょうか。平澤は4つのパターンを挙げています。

  • 蒐集物、または蒐集する行為に持ちこたえられなくなり、売却
  • 家族の理解もなく、蒐集の後継者もおらず、処分
  • 相続税を納めるために蒐集が売られるのを防ぐため、美術館・博物館・書庫などを自ら建設、あるいは既存の施設に寄贈
  • 生前の元気なうちにあきらめて処分、または寄贈

最後のパターンが最も賢明なのですが、「本に対する愛着は、なかなか断ち切れるものではありません」(p.30)と平澤も述べているように、なかなかそう簡単には踏ん切りはつかないでしょう。

本を集めるという、知識の蓄積という精神的な側面は、実際には言うまでもなく現実的な生活に大いに直結している。

これらのことは言われるまでもなく、当然といえば当然の事なのですが、平澤はこのような〈蒐集の最期〉の事例を、実際に著者が知る実在の人物のエピソードを紹介しつつ、説明していきます。

実例については割愛しますが、蒐集にまつわるドラマが、そこには展開されているといえるでしょう。

分析的で理性的な書き方と、蒐集家に対する敬意にあふれた情緒的な書き方との絶妙な混ざり合いが、この文章の大きな魅力となっています。